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Yoga×Music 京都禅寺


京都嵯峨野厭離庵にて、インド古典楽器サントゥールの奏者ジミー宮下氏とのヨーガと音楽のコラボレーションWS

「インドの宇宙観を体感する」を開催しました。






インド発祥のヨーガという生き方と古典音楽ナーダヨーガそして、日本の禅、同じ普遍の真理に通じる道が結ばれた瞬間。

厭離庵の住職ともお話しさせていたただく機会がありましたが、シンプルでとても素晴らしい方です。

ヨーガという生き方の中で、瞑想と訳されるサンスクリット語のディヤーナは、中国に渡り禅那となり、日本に禅として伝わったと言われており、南インドの僧であったボーディダルマ(菩提達磨禅師)が中国禅の開祖とされています。

まさに、ルーツを辿るようなひととき。



ヨーガの全体像を学ぶ座学の時間
知識を理解することにより、客観性が育まれ、迷いのないプラクティスにつながります。



本堂。
静けさと鳥たちのさえずりが、まるでサントゥールの音の波動と共鳴しているかのような中、深いアーサナプラクティスとロングシャバーサナ、瞑想を実践しました。


サットサンガ。
その日学び、感じたことを深めるひととき。



インドをとおして日本の禅文化に触れる
贅沢で、深く心に残るひとときでした。

Om Isvaraya Namah.

小学校授業での親子ヨーガ


先日、小学校に依頼され、
体育の一環として
親子ヨーガの授業を行いました。

180名の親子と一緒に、心と呼吸の関係性の説明からはじまり、様々なヨーガアーサナをとおしてスキンシップ、身体をほぐしながら、心の調和をはかるという内容で開催。




ヨーガの持つシンプルな生き方が、学校をとおして、これからの社会を担っていく子どもや、その家庭に広がる機会が増えていけば素晴らしいなと感じます。

Om Isvaraya Namah



ヨーガという生き方。


ヨーガとは、モークシャを求めた生き方のこと。

モークシャとは、
喜びでない、安全でない、幸せでないという結論をもった考えの私からの自由。

私の意味が、喜びで安全で幸せ。

人は、皆それぞれのバックグラウンドにもとずいた価値を持ち、それにもとずく個人の考えで生きている。
幸せの意味は人によって様々にあるように見えるが、

究極的には、ただ一つ。


富、名声、喜び、結婚を追い求める私。
裏を返せば、それがないと幸せでない私を証明していることになる。

いつまでたっても満たされない私がそこにはいる。
そして、満たされないから、また新たに得て叶えようとする... そしてまた...

何であれ得て叶える幸せはいつか儚く消えていく。

ヨーガの生き方とは、そうではなく

永遠でないものを永遠であるとみること(無知)に気づき、真実が何であるかを見極め、
私が本当に求めていることと、今私がしていることが関係のないことなのだ分かり、
無知を落としながら、知識(真実)を理解する生き方のこと。

アルタ(安全)カーマ(一時的な喜び)を追い求めていた私は、
そこから、ダルマ(役割、秩序)を通して喜びを見出し、
そうして、最終的に、モークシャを求めた生き方へとシフトチェンジしていく。

そこから、富、名声、喜び、結婚も本当の意味で楽しんでいくことができる。

体験は知識に導いてはくれるが、経験で感じたことは、本当の意味での知識ではないと言われる。
考えの私がそれを感じているので、限界があり、それは主観的な世界観にとどまる。

自己流は限界がある。

考えの後ろにあってそれを意識的に働かせている限界のない意識が、本当の私だと聖典は教えてくれる。



考えの私が知ることができないエリア
それは、五感で捉えられないエリアと
私自身。
私は私を知る道具を持っていないという事実。

その私を教えてくれる直接の道具がヴェーダ聖典の言葉。

体験は知識への準備。

ヨーガも同じ。考えを整理し、無知を落とすための実践。

アーサナも、プラーナーヤーマもその一部。

準備が整えば、聖典の言葉はすんなりと入り、自動的に知識は現れてくる。

先生の教えに耳を傾けながら、
今も変わらず脈々と受け継がれているインド伝統の教えは、主観的でなく、客観的な変わらない真実(リアリティー)を私たちに教えてくれる。

Om Isvaraya namah.







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スワミジ2018講話ダイジェスト、日本の皆さんへのメッセージ



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